Kafkaのゆるふわヒルクライム

ハイキング感覚でゆるく遅くサイクリングしています。ヒルクライムが好きです。最近URLを移行した為、記事内の自己リンク切れが多数あります。お気付きの際はコメントで教えて戴けると嬉しいです(2023 5/22)。

ロードバイクは何故魅力的なのか 〜既知と思って居た広い世界が実は自己の周辺情報しか認識して居なかった件〜

ロードバイクに乗って居る人なら、物理的にも認識的にも世界が拡がる話しは直観的に分かって頂けると思いますが、僕もそうした中の一人です。

 

何でロードバイクって魅力的なんですかね?

 

以前は車で似た様な事を考えて居ました。

200とか250km/h(勿論ライセンス取得してオーバルとかのサーキットでですよ)とかでタイヤの物理限界の均衡が破れる寸前まで行くと、物質世界や、自分の激しい感情の限界を超えて風景がモノクロになり、後輪のドリフトがスローになり、精神が穏やかになり、スローが「瞬間にして永遠」に止まって神と対話出来る一瞬がある様な気がして居ました。

いや、僕は宗教や神なんか大嫌い(日本の神社仏閣やお守りは大好き!)ですし、完全に錯覚なのですが。

けれどもそんな事ばかりやって居たら、命がいくつあっても足りないし、第一、車はお金掛かるんですよ。ロードバイクと一桁違っちゃいます。一気に現実的な世界に引き戻されますね。 笑

 

その点、ロードバイクは高くても100万位ですし、人力だし。僕の持久力エンジンと精神力ガソリンは相当にショボいですからね。ヒルクライムなら時速5キロで直ぐに死にそうになって、(御堂筋君の黄色い世界みたいに)山がモノクロになって、モータースポーツの限界閾値と同じ境地がお手軽に味わえちゃう訳ですよ。

 

そんで坂の途中で脚なんか付いてしまった日には、

 

「あ、今日はダメでしたね。また今度来て下さい。」

 

って山に言われて。何回訪れても役場の人に突っぱねられる、カフカの『城』状態ですね。

まあ僕は『城』の主人公「測量士k」と違って、「城」に入る事も「掟の門」に入る事も、最初から諦めてしまって居るのですが。

 

 

抑も人間って、外界や対象物をしっかり認識して居ると思いがちですが、紋白蝶の雌雄や蛇のピット器官の例を出す迄も無く、錯覚ですよね。外界の認識は、決して対象のイデアそのものを捉えて居る訳では無く、単なる表面上の可視光線領域の反射を見ているだけな訳です。

 

僕らの職場と自宅以外の世界は、果たして本当に存在して居るのでしょうか?

 

その広い世界は、テレビやネットの情報で認識されて自己の内面に表象されて居るだけで、実体として認識した事は無いのではありませんか?

 

だとすると、その世界が情報だけのインプットで実際には存在しないかも知れない。「否、そんな筈は無い!」と完全に言い切れる自信は無いのでは無いでしょうか。それで無くても最近は「マスゴミ」なんて言われて情報にバイアス掛けられまくりなのはバレて来て居ますし。

 

 

こうしたアフォーダンス理論の初期ロボットみたいに矛盾したインプットが氾濫して動きの破綻して居た人間の日常の漠然とした不安と疑問に、実際に自然の構造の中に連れて行ってくれる事で、

「ほら、認識世界の擬似スクリーンが先では無くて、ちゃんと自然構造の実存はあるよ、能動的に情報を認識して動いてごらん」

と言ってくれる媒介が、ロードバイクだと思うのです。車だと単なる風景情報でしか無かった絶対行かないような場所に、自らがアフォーダンス理論の、今度は高次ロボットになって、実際に行き止まりにぶつかっては戻ったりしながら動き回れる訳ですね。

 

自分の認知の媒介な訳ですから、当然、脳の一部、自己の一部と云える訳ですよ。然も動くのはエンジンやガソリンではなく自分の手足の延長である人力ですからね。

頭や目にはお気に入りの強化外骨格なんて装着して「覚・悟・完・了・!」なんて言っちゃって。

心拍や脚の動きと云った生体情報を外部数値化してコックピットに表示なんかしてシンクロ率上昇!機体暴走!とか。多い人だと初号機の他に零号機とかも揃えちゃったり。

 

更には脚なんてビンディングで直結なんてしちゃって。実質、クランクとホイールが脳と直列して居るも同然ですよ。完全に『パシフィック・リム』です。

 

そりゃぁ、最高にお気に入りな相棒にも、なるに決まって居ますよね。

 

 

僕も昨日登った風車なんて、麓から車で通り掛かる時に目に入る、山の上の風景でしか無かった訳です。まあ、見えて居るから何かあるんだろうなぁ、と云う帰納的認識でしか無かった。

(何あれ?何か白い風車?)

からの

(風力発電所である!)

と云う認識の変換。

 

(下から見えて居る→きっとあるんだろう)

から

(実際にあった!→下からも見える)

 

と云う演繹的認識になった訳です。大袈裟に云うとイギリス経験主義で云うところのタブラ・ラサ(白紙)状態からの脱却でもあるのかな?

 

 

 

今迄は、外部情報のインプットと内面の認識スクリーンに映る情報世界だけが世界の全て。

けれどもロードバイクなら、そうした日常の殻を破って新しい認知の次元にまで自分を運んでくれると云う訳ですね。マトリックスからの覚醒。謂わば「認知の高次トランスポーター」或いは「脳のゆりかご」と云えますね。

 

 

まあ、結局、何が言いたいかと云うと、哲学的にもロードバイクは正義、って事です。

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